第三部  熊野速玉大社・那智大社・本宮大社

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熊野川の向こうには
神倉山がそびえ
その手前に
熊野速玉大社の
朱色の社殿が
見えてきた

熊野川を船で下ってくるのも見える

伊勢神宮にも劣らぬ
参拝の人だ

大阪や京都の人も多く
参拝されるのであろう

「あそこに見えるのが
神武天皇が
上陸されたところのですよ」と
天女が教えた

今度は那智大社へ

どんどん山深くなり
霧の中から赤い社殿が見えた

そして大きな瀧が現れた

七十三尺あまりというから大きい(133メートル)

山の中のいくつもの瀧で
修行している修験者の姿も見られた

瀧のしぶきで虹が出ている
美しい情景である

険しい山越えをする人達の一行がいる
「大雲取越」「小雲取越」である

足に自信の無い人達は
速玉大社までもどり
本宮大社を目指すのである

天女と喜八少年は熊野川を下に見て
熊野のいくつも重なる山の峰峰を本当に美しいと思った

熊野三千六百峰と言われるゆえんである

「あれが本宮大社ですよ」と
川の中州を指差した

大きな中州に立派なご社殿が
大きな木々に囲まれて見えた

とうとう熊野まで来てしまった
喜八少年であった

第四部 八咫烏に出会う

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天女に手をひかれて
本宮大社に参拝した喜八は
見たことも無い大きな「鳥」が
大木の上に止まっているのを見て
ビックリ仰天
「天女さん怪獣がいますよ」と
ふるえている喜八でした

天女は「では宮司様にご挨拶して
あの大きな三本足の烏の
お話しをお聞きしましょう」
とさっさと社務所に入っていった

中には笑顔で「ようきた、ようこられた、
遠い所をまぁまぁどうぞこちらへ」
と手招きをする
人のよさそうな宮司さんがいた

天女が宮司さんに喜八少年のことを
一通リ説明をして
「宮司様、喜八さんにあの八咫烏のお話しをして頂けませんか」
と頼んでくれました

宮司様は「おやすい御用です」と
とても気安く承諾していただきました

「むかしむかし、神武天皇様が
九州の日向の国を出られ
大和の国にお入りになられた時
この熊野の山の中で
道に迷われたそうな

その時あの大きな八咫烏が
天皇様のご一行を
無事大和の国へ
お連れしたそうな

天皇様は大変お喜びになりました

それからは
この熊野では
烏を大切にお守りする風習が出来たそうな」

と宮司様のお話しを
喜八はひと言も聞き逃すまいと
一生懸命聞いていました

それを見ていた宮司様は
「そうだ喜八さんいいことがある
一つあなたに手伝ってもらおうか
私の手紙を朝鮮のお寺さんへ
あの八咫烏と一緒に届けてください」
というのでした

天女さんは
「いいことですよ喜八さん
あとの事はお父さんお母さんに
良くお話ししておきますから
立派にお役目果たしてくださいな」
と励まされ
喜八少年は
八咫烏と一緒に
朝鮮半島めがけて
飛び立つことになりました

喜八は宮司様のお手紙を
身体にしっかりとむすんで
八咫烏君の首にのり

「よろしくおねがいします
君のことどういえばいいの」
と聞くと八咫烏は
「ヤタクンとよんで」と答えた

「じゃあヤタクンよろしくね」
「じゃあしっかりつかまっててね、行くよ」

大きな翼を力強くはばたくと
空高く舞い上がりました

下では宮司様や
天女さんはじめ
大勢の人達が手をふって
見送ってくれています

喜八少年と八咫烏のヤタクンの冒険のはじまりです

第五部 日本海 その壱

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八咫烏のヤタクンと喜八は
上空を何回も旋回しながら
わかれをおしんだ

「そろそろ行きましょうか」とヤタクン
「はい行きましょう」と喜八
「じゃあまず高野山めざしていきましょう」

熊野本宮大社から
十津川、大塔、花園、高野山へと

ここは弘法大師ゆかりのお寺の多いこと
ここで多くのお坊様たちが修行されているのだろう

「つぎは大和ですよ」とヤタクン

九度山、五条、明日香、橿原神宮、斑鳩、東大寺、大和三山

熊野とは大違いな景色でまさに大都会
「都(みやこ)」であった

「京のみやこはもうすぐですよ」とヤタクン

奈良の都よりも
もっと整然と街が
碁盤の目のように造られている

「あそこが天皇様が居られる御所ですよ」と
ヤタクンの説明でどんどん広がる町並みと
たくさんの人達

喜八は今までにこんな多くの人を
みるのははじめてのことでびっくりです

身に着けている着物のきれいなこと

こんな世界をみるのもはじめて
喜八少年の「目」が輝いていました

第五部 日本海 弐

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京都の華やいだ
何ともいえないゆたかさ

子供の喜八にも分かる
ような気持ちと
ここが本当の
「都」なんだと
それとなく感じた
喜八少年だった

さて山城の国を越えれば
若狭の国
日本海が見えた

丹波そして丹後の国には
元伊勢籠神社があり
天の橋立の松の素晴らしさは
まさに「白砂青松」

喜八の生まれた熱田の海も
きれいではあるが
ここは静かな分だけよけいに美しく見えた

播磨(はりま)但馬(たじま)因幡(いなば)
美作(みまさか)備前(びぜん)伯耆(ほうき)
備中(びっちゅう)備後(びんご)

出雲(いずも)大きなお社の出雲大社を拝みつつ
安芸(あき)銀山で活気のある石見(いわみ)
周防(すおう)長門(ながと)と来て九州が見えてきた

雄雄と飛ぶヤタクンがたくましく見えた

第五部 日本海 参

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九州へ近づくにしたがい
だんだん雲が多くなり
風も吹いてきました

すこし心配になってきました
「ヤタクンこのまま飛んでていいの」と
喜八はすこし落ち着きません

「うんもう少し先に
対馬と言う大きな島があるんだ
そこの島に行った事があるから
そこまで行ってみましょう」

豊前(ぶぜん)筑前(ちくぜん)を過ぎ
日本海に浮かぶ壱岐(いき)

玄界灘もすこしうねりが出てきて
白い波が岸にぶつかると
白いしぶきになってきました

喜八も必死にヤタクンの首に
しがみつくようになってきました

ヤタクンは「喜八くんもう少しだからね心配しないで」と
喜八を励まして飛び続けました

まずいことに対馬海峡は
もう台風と同じ大粒の雨も落ちて来ました

喜八はそうだ宮司様から預かった
お手紙は大丈夫か心配になって来ました

「ヤタクンお手紙大丈夫かな」

ヤタクンは
「大丈夫大丈夫油紙で包んであるから
濡れやぁしないよ」と教えてくれました

それでも心配な喜八は
懐の中にしまいました

「もう少しで対馬だからね
シッカリトつかまっていてね」と
ヤタクンが言った時
横からとっても強い風にあおられ
さすがなヤタクンもバランスをくずした

その瞬間

喜八は大しけの海の中へと
落ちていってしまいました

第五部 日本海 四

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大変なことになってしまった

喜八は少しは泳げますが
なんせ八歳の子供
大しけの海の中で泳げるのか

ヤタクンは気が気では無く
何度も旋回しながら低空で
足をいっぱい延ばしながら
喜八につかまらそうとするのですが
荒れ狂う海の上ではなんともなりませんでした

喜八は一生懸命泳ぎましたが
とうとう力尽きて対馬の海に消えて行きました

ヤタクンは「ごめんね喜八くんきっと探しに来るからね」

泣き泣きヤタクンは
対馬の厳原(いずはら)というところの
万松院(ばんしょういん)という
お寺に向ってひっしに飛びました

やっとのことで山門の上にとまり
大きな声で「かアア~かアア~」となきました

このお寺は対馬藩主
宗家の菩提寺でとても立派なお寺です

たくさんのお坊さんもお侍さんもいらっしゃいますので
直ぐにヤタクンの気配にきずきました

ずぶぬれのなか羽根は折れ
抜け落ちた姿はただごとではありません
ご住職やえらいお侍さんが出てきてくださいました

ヤタクンは生まれた時から
熊野本宮大社の宮司さんにかわいがられ
いつも鸚鵡返しに
かたことのお話しが出来るまでに
訓練されていました
たいへん賢い「からすさん」でした

お寺の中にはすぐに熊野のヤタクンだと
分かる人もたくさんいて
ご住職が「ヤタクンどうしたの」

「はいお手紙を届けるとちゅうに嵐に会いました
もう少しの所で喜八君が海に落ちました」

りっぱなお侍さんが
「今日のこの天気ではさがしようがない
お天気が回復したらみんなで探しましょう」といって下さいました

若いお坊さんが
「ヤタクンまずは疵の手当てをしてあたたかい物でも食べてください」
と言ってみんで手分けをしてヤタクンを
お世話して下さいました

第五部 日本海 五

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お世話をするといっても
ヤタクンはまだ大人になっていませんが
六尋(ひろ)もありますから(十メートル六十㎝)
一人や二人では手が足りません

なん十人もの人がお手伝いしてくれました

それを聞いたお殿様が
直じきにお医者様に
みてもらえるようにして下さいました

お医者様は
お薬をヤタクンに塗って下さいました

「さァもういいですよ
よくこんな嵐の中頑張りましたね
ゆっくりお休みなさい」と
お医者様が声をかけて下さいました

ヤタクンは泣きながら
「どうもありがとうございました」と
お礼を言いました

ヤタクンは喜八くんのことが心配で心配で
涙が止まりませんでした

お寺の中では
すでに地図を囲んで
先ほどの立派なお侍さんを中心に
喜八少年の捜索範囲の検討や
人数の配置をすでに始めていたのでした

明々とローソクをともし
夜遅くまでお話し合いをして下さいました
朝になり明るくなってきました

ヤタクンは「かあァ~かあァ~」と
大きな声でなきました

すでにお寺の皆さんや
お侍の皆さんが
勢ぞろいをして
それぞれの隊列で駆け出していきました

ヤタクンも飛び出そうと
羽を動かしましたが
痛くて何時ものようには動きません

昨日手当てをしてくれた
若いお坊様が飛んできて
「だめですよ昨日のお医者様が
動かないようにとおっしゃっていますから」

ご住職も「ヤタクン疵が治るまでしばらくお休みなさい」
といって下さいました

「皆さんで手分けをして探していますから
きっと見つかりますから
喜八さんを信じて待ちましょう」

ご住職は若いお坊様に
あとを頼んで
仏様の前で喜八少年が
生きているのを念じて
一生懸命お経を上げて下さいました

第五部 日本海 六

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ご住職のお経が
ヤタクンのところまで
聞こえてくるほど
凛とした透き通ったおこえであった

いつの間にかヤタクンの気持ちも
落ち着きを取り戻し
「そうだぼくも
ご住職と一緒に
喜八くんの無事を祈ろう」
とするヤタクンでした

お昼が過ぎ
ゆうがたになり
とうとう暗くなってしまいました

捜索隊はたいまつで明かりを取り
探しましたが手がかりはありませんでした
その日の捜索は打ち切られ
万松院で捜索の見直しが検討されました

「ヤタクン君が飛んできたコースをもう一度教えてくれないか」

とお侍さんに聞かれました

「はい筑前から肥前をとおり壱岐と五島の間を通ってきました」
「すこし遠周りをされたようじゃな」
「それがこんなことになりまして」

「心配なされるな喜八くんは
きっと生きていると
みんな信じてこうしてさがしておるのじゃからな」

「さて明日はわしの感では南の方を重点的に探すことにいたそう」
何かこの立派なお侍には
心当たりがあったのでしょうか

もう薄暗い内から
このお侍さんは
ご住職に
「何かあればのろしを上げますゆえ
吉報をお待ちくだされ」
というが早いか
もう家来を引き連れ馬を走らせました

昼九っにもなろうかとした時
山の上から
「豆酘(つつ)岬からのろしが上がりましたァ」

「吉報でござる、吉報でござるゥ~」
泣きながら降りてくる若武者がいた
よほどうれしかったのであろう

みんな手を取り合って喜んでくれている

ヤタクンは「皆さんありがとうございましたぁ」と
いうがはやいか痛い羽を力いっぱい羽ばたき
南の豆酘岬へ向いました

「喜八くん生きていてくれてありがとう、本当にありがとう」

泣き虫のヤタクンの涙がとまりません

第五部 日本海 対馬

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豆酘崎(つつざき)では
大変な騒ぎです

村の人は総出で
喜八少年を取り囲み
お医者様の手当てをみています

お侍様の感が当たっていたようで
この豆酘湾は
対馬の一番南にあり
とてもよい港もある
入り江になっておりました

しかし喜八くんが発見されたのは
遥か山の上

それも多久頭魂神社(たくつたま)
と云う霊験あらたかな神社の
ご神田にうちあげられていたのです

この神社は
日本に一番早く
「赤米」が伝わったところで
このお米が「ご神体」という
何とも不思議な所へ軟着陸したのです

右手にしっかりと
熊野本宮大社の宮司様の
お手紙をにぎったまま
大の字に眠るがごとく
気をうしなっていたのでした

お医者様のお話しでは
死んではいないのだが
目を覚ましてくれないとのことです

そこであの侍様が

思わず膝をたたいた

「そうだヤタクン君が
喜八くんにお薬とお水を飲ませて上げなさい
きっと目を覚ませてくれますよ」

お医者様も「そうじゃそうじゃそれは良い考えじゃ」

「では早速ご用意しましょう」

お医者様が喜八くんの
くちびるにお薬を水でといて薄くぬりました
そしてヤタクンが
くちばしに含んだ水を上手にかけました

一度二度三度してるうちに
喜八くんの顔に
血の気がよみがえって
きたではありませんか

お医者様は「もう大丈夫だよヤタクンよかったね」

お侍様は
「きっとあの油紙で包んだ手紙が
浮きぶくろになって沈まずに
喜八くんを浮かせていたのだろう
そして大きな波と風で
こんな高い所まで
運んでくれたに違いない」

「それにしてもこんなことが
あるのだろうか不思議なことじゃ」

村の人も「よかったよかった、本当によかった」
みんな喜八少年の無事をよろこんでくれました

第五部 日本海 対馬

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元気を取り戻した
喜八少年とヤタクンは
お殿様に拝謁(はいえつ)
することになりました

お殿様は
今回の大変さを
お分かりになって
二人にねぎらいの
お言葉をおかけになりました

「そうじゃな私も朝鮮のご住職に
手紙を届けてもらおうかな」

「かしこまりました」

「これあのお品を」と云って
ご家来になにやらもってこさせました

それは新しい着物とおいしそうなお菓子でした

「もう一つこれは喜八くんにはちとむずかしい話じゃが
朝鮮の王様のお遣いで〔通信使〕の皆さんが
もう朝鮮の都をお出になった五百人もの行列ゆえ
どこか出会うやもしれん
もしお会いすることがあれば
対馬の宗が楽しみにお待ちしておりますとお伝えくだされ」

喜八少年には少し難しすぎてわかりませんが
ここのお殿様も大切なお仕事をされていらっしゃるのだと思いました

喜八少年とヤタクンはお殿様にお礼を云ってお別れをしました

そして万松院のご住職やお侍様はじめおせわになったみなさんに
お礼とお別れの挨拶をして気持ちも新たに旅たちの準備をしました

お山の上から海から来る上昇気流に乗ればたやすく飛びたてます

ヤタクンはそういうこともチャンと知っています

「喜八くんいい風がふいてきた」
「よし行こう」
「じゃあ皆さんありがとうございました」
「元気でねぇ」

お寺の上を旋回して
お城の上をまた旋回して
お殿様やお姫様みんな手をふって見送って下さいました

「ありがとうございましたァ」いちばん大きな声で
喜八少年は叫びにもにた声で心の底からお礼を言いました


ふたりは豆酘の多久頭魂神社に
お礼の参拝に向いました

ふたりとも何も云わずにここに
お参りに来ることはきまっていました

もうだめかとあきらめかけた命を
お助けいただいた
ここの神様にお礼をして
旅立とうとしていたのでした

第六部 対馬から朝鮮へ

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 喜八少年とヤタクンは
 お天気が良くなった日本海を
 釜山目指して飛んで行きました
 
 喜八くんやヤタクンは知らないことですが
 この対馬と釜山の距離は十二里余り(49.5km)で
 そんなに遠くはないどころか、とても近いのでした
 しかし海があれるととてもこわいのです

 朝鮮の訳官使一行一〇八人が
 元禄一六年二月五日朝
 対馬の北部、鰐浦の直前で急変した天候で
 全員死亡
 するという大参事があったり

 対馬藩の儒学者雨森芳洲は日本と朝鮮の平和外交に
 そして朝鮮通信使の架け橋に何度もこの海峡を往復
 して朝鮮語・中国語の「辞書」まで編纂した
 素晴らしい人物がいました

 しかし海は穏やかな時はよいのですが
 一度あれると容赦なく人の命を
 呑み込んでしまいます

 遠くは遣隋使・遣唐使が命がけで
 この海を渡り国造りをしました

 さて二人は順調に釜山に向って飛行しました
 だんだんと陸地もはっきりと見えてきました

 港には
 大きな船がなん十艘もの船が係留され
 大きな荷物も忙しく運ばれていました
 活気のある港です

 喜八少年も熱田の港で大きな船はみたことは
 ありましたがこんな大きな船ははじめてでした

 その向こうには長いながい行列が続いています
 うしろのほうは見えないぐらいながいのです
 ヤタクンも喜八くんも
 こんな長い行列みたことありませんでした

 それも日本ではみたことのない
 きれいな衣装です
 おおきな旗には「清道」とかかれています
 さらにおおきな龍の絵が画かれたものもあります
 赤い色が多いのでとても良く目立ちます

 屋根のある輿にのった見るからに
 立派な人から
 馬に乗って指図をしている人
 荷物を運ぶ人
 ざっとみて五百いや六百人はいるかとおもわれた
 あれが「朝鮮通信使」の一行様か
 と喜八はおもった

 行列がとまり休憩となりました
 「ヤタクン降りてご挨拶しようか」
 「そうだね あそこがあいてるから
 ちょうどいいよ」

 大きなカラスと子どもが
 とつぜん空から降りてきたので
 大騒ぎになりました

 輿に乗っていたのは「正使」といって
 朝鮮王朝の「国書」をはこぶいちばん偉い人でした

 喜八は対馬藩のお殿様から
 あずかった手紙をご家来に渡すと
 正使はそれを読んでにっこりと笑って
 喜八を近くに呼ぶように家来に言った
 喜八は正使の近くにより
 宗家のお殿様から云われた
 道中気をつけて下さいとのおきもちを
 お伝えしました

 正使様は
 「お手紙の中に有難いこころずかいが
 かいてありました」
 「これからどちらへ行かれるのか」と
 おたずねになりました

 「はいこれから、熊野本宮大社の宮司様と
 対馬藩主宗家のお殿様のお手紙を
 慶州の仏国寺のご住職様にお届けに参ります
 「それはそれは大儀じゃようこられた」
 「私からも一筆したためましょう」

 といってさらさらと
 お手紙をお書きくださいました
 「お寺におつきになったら
 ご門のところでお渡しなさい
すぐにご住職にお会いできますからね」

 喜八は内心これからどうしようかと
 おもっていたところでしたので
 ほっと楽な気持ちになりました

 正使様は
「仏国寺は
 もうそんなに遠くはないから安心なさい」
 ヤタクンをみて
 「本物の八咫烏ですか
 良く飛んでこられた
 さすがに熊野の八咫烏ですなァ」
 と感心しきりである

 ご家来の人達はヤタクンに触ったり
 両手を広げて大きさをはかったりして
 たいへんな騒ぎになってきました

 ヤタクンは嫌がらずに我慢をしていました
 「そろそろ仏国寺へ参ります」
 「そうじゃなお役目ご無事に果たせますように
 念じておりますぞ」

 二人は楽しそうに空に飛んでいきました

第六部 釜山から慶州へ

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二人は楽しそうに空へ飛んでいきました

お天気も良くなり気持ちのよい景色に
見とれていました

山深いいかにも修行するのに
ふさわしい大きなお寺が見えてきました

大きな石と木をうまく組み合わされた
日本のお寺とはにているのだがどこか違うように
二人は思った

山門に着いて喜八少年が
「御願いします日本からご住職様に
お手紙をお届けにまいりました」

「どなたかな」と大きな若いおぼうさまが
でてこられました

「これをご住職様に」と
三通の手紙をみせました

「わかりましたここでしばらくお待ち下さい」
と云ってお坊様はなかへはいっていかれました

しばらくして「どうぞこちらへ」と案内され
大きな本堂に通されました

何十人ものお坊さまが
拍手で出迎えをして下さいました

ヤタクンも広いお庭へ通されました

ご住職は三通のお手紙を皆さんの前で
お読みになりました

熊野本宮大社の宮司様のお話しをされました

むかし日本の豊臣秀吉軍が
この国をせめてきました
そしてこの仏国寺も戦火にあい焼失しました

そのご無礼をわびてこれからは仲良くしましょう
ということでした

はるかむかしは国境もなく
人は自由に行き来していました

このたびは「八咫烏」を遣って
平和で戦争の無い時代をつくりましょう
とおはなしされますと
お坊様たちは全員立ち上がり
割れんばかりの拍手でなりやみません

いつの間にか若いお坊さんたちも廊下に立って
ご住職のおはなしをきいていたのでした

ご住職のお話しはまだ続きました

日本に仏教を中国と一緒になって伝え
奈良の大仏建立のもお手伝いをして
日本の天皇様のお手伝いに
いつも大勢の朝鮮のひとがまわりにいたのです

さらに驚くことにご住職は
王様の古墳の副葬品の中には
八咫烏の模様がよくつかわれています

これは権威の象徴なのです

日本の天皇様が天皇に即位されたときに
着られるお着物には
八咫烏の模様があるのです

喜八は聞いてても良くわかりませんが
「やたがらす」はとんでもない歴史
があるのだと思いました

ヤタクンをもっと大事にしなければとも思いました

今度は宗家のお殿様のお手紙のお話しになりました

着八少年が対馬の豆酘崎で海に落ち
一命を拾うという
奇跡のお話しをされました

これは朝鮮と日本が国を造る
神話のお話しまでされたのですから
若いお坊様たちはたったまま目を輝かせて
ご住職のお話しに聞き入りました

日本の国造りの神様が
高皇産霊尊(たかみつくりのみこと)で
日本では皇祖(みおや)とあがめられ
農耕生産の神であり
文化のひらかれた知恵の神様でもあるのです

その神様がお祭りしてある
対馬の多久頭魂神社の
赤米のご神田に打ち上げられて
助かったとはなんとすばらしい事かと
ご住職のお話しにもますます熱が入ります

「この偉大な神こそ
わが朝鮮半島新羅あたりから
お渡りになられたと
私は教わりました」

ご住職が日本の
「日本書紀」「古事記」
の世界を講義されたのですから
本堂はまるで別世界となりました

そしておわりに
正使様のお手紙のお話しをされました

いま日本へ
国王様の「国書」をもって
日本の江戸まで往復五ヶ月ほどの旅で
たいへんな道中であろう

お互いに「通信」とは
「信(よしみ)」をかわす意味ですよ

これからは日本とも争いの無い
国どうしでなければなりません

「喜八くん
ヤタクン
本当にご苦労様でした
明日はお寺の中を
ゆっくりと案内しますからね」

また大きな拍手で本堂が揺れんばかりでした

第六部 慶州仏国寺

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もう真夜中の丑の刻(午前二時)
には読経が始まりました

喜八くんもヤタクンも寝てはおれません

着八少年も朝早くからお手伝いはしますが
さすがに丑の刻からはしたことがありません

からすははやいだろうとも
午前二時からはおきません

仏国寺のお坊さんたちは結婚をしませんので
一生仏様にお仕えするのがお仕事なのです

ただひたすらお経をあげることが修行であります

ふたりはお経を知りませんが
でも聞いたことはあります

ご本堂へ行きお経を唱和させて頂くことにしました

こんなにもお坊様がと思うぐらいたくさんの
お坊様で入れません

ヤタクンと一緒にお庭で
ご唱和させていただきました

こんなにたくさんの
お坊様のお経が一つになって
聞こえてきます

高い音低い音も一つになって
大きなほとけ様の中に吸い込まれていきます

お線香のにおいも煙りも
外から見ていると
ご本堂をゆっくりと包んでいくようです

そのうちお坊様たちは
からだを床まで倒されて
お参りされるようになりました

たいへん大きなおとです
本堂が壊れそうなおとです

お経が終わりますと
朝のお食事です

てきぱきと背筋を延ばして
無言ですませ無駄なことは一切ありません

しばらくすると若いお坊様が
二人の所へ来て
今からお寺を案内しますから
行きましょうといって下さいました

ヤタクンは入れないところろが多いので
外から見学

何度も何度も修理をしながら
元に戻されているお寺ですから
風格があります

とにかく広い
きれいにお掃除されているお庭は
とてもきもちがよいです

幾つもあるお堂は
それぞれ趣があります

特別に「石窟庵」という
石で出来た大仏様を見せて
いただくことになりました

若いお坊様は
喜八少年をだいて
ほとけ様に触らせてくださいました

喜八少年は
なぜか自然になみだが
出てきたのでした

喜八はおもわず
若いお坊様にしがみつきました

わかいお坊様も
喜八をしっかりとだいてくださいました

わかいお坊様は
「よかったですね
このほとけさまは特別ですよ
きっと喜八さんに
よいことがたくさんありますように
お参りしましょう」
といって一緒に
お経を上げて下さいました

美しいそして荘厳な
お顔のほとけ様は
喜八少年にとって
いったいなんだったんでしょうか

世界中のお母さん全部合わせても
およばない
お母さんだったかもしれません

見学から帰り
ご住職にご挨拶に伺いました

にこにこされたご住職は
「どうですかお疲れでしょう
しばらくはここで
ゆっくりとしていただいて
どうせこんな遠くまでこられたのですから
ほかの所も見てお帰り下さい
いつまで居られても結構ですよ」
とおっしゃってくださいました

しばらくはご住職の御世話になりました二人
さて次なる旅は。。。

空を飛んだ喜八少年 還暦のたび 壱

Posted at 07/09/04 Comment(0)» Trackback(0)»

旅人の還暦旅日記 死出(志で)へのたび衣
                              其の壱
二六六六年 弥生七日
 尾張年(あ)魚市郷(ゆちごうり)千竈村より旅に出で、
岐阜、大垣、関が原古戦場、長浜、小谷城、姉川の戦い、
雨森芳洲庵、賎ヶ岳の七本槍を遥拝し、

今津より昨日降った雪の中を北陸は小浜へ、
福井県立若狭歴史民俗資料館を訪れる。
北陸の厳しい中にも正月をお祭する心が素晴らしかった。

塩作りに対する展示はどこも感心させられる、
わが千竈村も塩作りの地であるからだ。
塩を作る事、即ち人間が生きる事に他ならない事なのである。

今も昔も人が生きるということはあまり変らないかもしれない。

舞鶴にて引揚記念館を見学、正に「岸壁の母」「異国の丘」である。
旅人も終戦の生まれ目頭が熱くなる。

 はる霞 お市の方や 小谷城
 啓蟄や ほんとにいたぞ てんとう虫
 春風や 還暦のたび いそいそと
 朝もやの オブラートの中 陽の光
 啓蟄や まだまだ雪の 琵琶の瑚

宮津にて故江碕公朗さんの最後の著書「尾三の女たち」を香山先生に届けるべく
天橋立へ急ぐ時間がなく「ちりめん問屋」の山崎さんにおあずかりねがう。助かった

 丹後半島横切って豊岡、鳥取へ五時には着いて
松露の栽培に成功した浜根農園の皆さんと、
一人打ちの蕎麦教室が待っている。
とにかく寄り道はできない、ようやく辿り着きました、

やれやれ・・・二十人ほどの皆さんとビニールハウスの中でたのしく、

おいしい蕎麦を打つ事ができ、皆さんお喜びでした。

こんな田舎にハワイ温泉があるということで浜根さんのご好意で
「山陰の水郷・はわい温泉・ニュー高橋」さんでお世話になりました。

 おいとまをしてと思い階段を降りかけた時、
まだ新しい機織機を見てしまいました。

その話をした瞬間お上さんの目が曇りました。
二十五才で白血病でなくなったお嬢さんのものだった。

つらい話をしてしまったがこれも人生、堪忍して下さいね。と・・・

浜根のお婆さんにお別れのあいさつをすませ 
お土産に四,五種類のサツマイモと長いも・
お爺さんから頂いた地元で作られたワインを銀治先生のお土産に、

一路長州へ・・・

 松露生み 大かざぐるま 日本海
 黒松や 大砂丘に 松露かな
 はたおりや かなしき思い 残し布
 サツマイモ 赤白きいろ むらさきも
 伝説も 神話もすべて この出雲

季語の無い俳句も気がひける

空を飛んだ喜八少年 還暦のたび 弐

Posted at 07/09/04 Comment(0)» Trackback(0)»

 さてさて一路、長州へ
倉吉・大山・米子・安来・松江・出雲と過ぎた所で

気になる看板「荒神谷史跡」つい寄せられて行くのが旅人の好いところ、
すごい所へ来てしまった。

出てきた銅剣358本・銅鐸6個・銅矛16本も出土、
公園整備され古代復元住居・古代農耕地・2000年ハス・
勿論博物館・ハスの種2粒で100円頂いてきました。

レプリカの銅剣、銅矛は手袋をして持つ事ができ、
思ったより重かったのでびっくりでした。

次は石見銀山へ、世界的に有名なこの銀山がどんな形で掘り出され運ばれていたのか、
一度見たかった所ではあったので今回はラッキー、
でも終了時間は迫っていたので資料館しか見る事ができなくて残念でした。

帰り際学校帰りの小学生に元気よく挨拶されとても気持ちがよかった。
サア楽しく旅が続けられるぞ。

津和野も行きたい所ではありますが、
なぜか今年は松下村塾が気になっている旅人である。
          
吉田松陰、高杉晋作、坂本竜馬、志を持って国のために命を捨てた男たち、

どんな時代でも自分の保身のみに生きる輩、
貧しくとも志しを持って最後まで通せる強い意志があるか、

六十になって一回りやっと振り出しなのかもしれない、

このあと旅人はどんなたびをして幕を引くのかその探したびかもしれない

伊勢神宮の元少宮司H先生にご縁を頂いて

3回そば打ちを伊勢でさせて頂きました。

今年一月九・十日鳥羽の答志島の中学校で一三〇人の蕎麦教室をした後

どうも気になって寄ろうか寄らまいかと悩んだ挙句、

内宮、外宮を夕闇迫る中参拝して帰りました。

先生はその十四日に逝去されました。

全てに、かん口令が出され「皆様にご迷惑、貴重なお時間を頂けない」との事で

この瞬間にご縁をとざされました。

潔いというのかご自分の幕引きのよさをなされる勇気、

小生は、よい師を頂いたと感謝したい。

三回もお招き伊勢とのご縁を頂いたこと旅人には過ぎた果報でした。

人はこの世と別れるときに淡々とこの様に出来るものだろうか。

いやいやそうではなろう。

いざ皆様と永久のお別れをするに

一人寂しく旅立つ勇気もこれからトレーニング?

までもいかなくっても、

まあ少し頭のどこかに意識をしながら旅をしていた方がいいかも知れない。

旅人は何時何処で酔っ払って道路で寝ているのか分からないと思う

これは自分自身が一番そう思っているのが現状である。

多分車に惹かれてお陀仏辺りがおいらには良く似合う所かもしれない。

それで志はあるのか?と言われると返事に困る私ではありますが・・・
 
 朝もやの はき清められ 鳥居かな
  松蔭と 眠るは晋作 萩の宿
  狭くとも 良き師と弟子は いとわずや    
  貧しくも まさるものなし こころざし
  維新とは 人がまっこと 竜馬かな

松下村塾へ急ぐ

空を飛んだ喜八少年 還暦のたび 参

Posted at 07/09/04 Comment(0)» Trackback(0)»

早朝の萩、松蔭神社は若い禰宜さんが
朝の挨拶をしながら竹箒で境内を掃除をしていたが、

松下村塾はすでに掃除は済み、
戸は全て開け放たれ清楚なたたずまいが、

朝の寒さもありますが凛とした緊張感さえ覚えるのは
あまりにも大変な歴史の舞台でありすぎるためなのであろうか、

建物そのものは大きな台風、地震が来れば
すぐにでも壊れそうなたたずまいなのが
又なんとも涼しげで気持ちが良い、

しかしどんなことがあってもこれをなくしてはならない大切なものであろう。

次の時代を担っていくべき人たちのためにはどうしても

こういう場所は大切に守り伝える義務がある。

松陰先生と晋作のお墓まいりに行く、

師弟がこういう近い所に祀られるのはうらやましい限りである。

でも余りにも短い命・竜馬享年三十二才、わが為すことは、我のみぞ知る。

日本を今一度せんたくいたし申候。

敵なのか見方なのか分からないこの人脈は
やはり竜馬の魅力なのではないか、

山内容堂、後藤象二郎、中岡慎太郎、武市半平太、岡田以蔵、
勝海舟、佐久間象山、徳川慶喜、松平春嶽、西郷隆盛、桂小五郎、

そして高杉晋作享年二八才、吉田松陰二九才とつながるのであろうが、
其のうしろにいる人は何十倍の人脈であろうことは容易に想像がつくというものであろう。

しかし松陰先生は殆ど幽閉の身であったことを考えれば、
其の言葉の強さは何であったのだろうか、

日本海の長州にはそれが理解できる土壌が
元々あったのであろうと思わずにはいられない。

いきなり太平洋側からペリーが来ただけの事で太平洋の波が高くなり、
もともと日本の歴史は日本海を挟んで中国、朝鮮半島、
ロシア、東南アジア、ヨーロッパのお付き合いはこちらが玄関であったわけで
日本海はいつも波が高く

日本の対応の仕方をトレーニングしながらそれなりの情報や知識は
理解して対処できる能力は当然持っていたのであろう。

萩焼の登り窯も見てみたかったが今回は先へ行く事にして少し心残り、
カーナビのいうとうりにただただハンドルを回しているだけなので
聞いた事もない町の名が出てくるのでこれも楽しみの一つかもしれない。

鳥取でこんな事があった。配送をしている運転手の名前が車に書いてあり、
これがなんと読んで好いのか分からず、
悩んでいた所偶然にもトイレに一緒に入る事になり

出てから其の運転手にお聞きする機会に恵まれ解決する事ができたことがあった。
ちなみに彼の苗字は「鷦   」を「ささき」「みそさざい」と読むとの事。
苗字も地名も只付いているだけではないでしょう。

 いまはもう 合併あとの 地名なし
 バイパスや カーナビくんも 空をとび
 苗字こそ わが一族の ナビゲーター
 このくにの 地名と苗字は だれのもの
 日本海 このむこうにも ご先祖が

きちっと「季語」を入れないから旅人に「イエローカード」です
第二部 九州編に続く

空を飛んだ喜八少年 還暦のたび 四

Posted at 07/09/04 Comment(0)» Trackback(0)»

  二部 九州編

三月九日 関門トンネルを通過する頃から
荒神谷遺跡によってからどうも吉野ヶ里が気に掛かりだしていた。

よし、唐津、伊万里、有田を捨てて吉野ヶ里に決めようとカーナビにセットする。
看板を見ながら走るとおいしいものばかりである、

少し反省しながら吉野ヶ里歴史公園へ、思ったより広いところでよく整備されている。
スタッフも古代人のユニホームを着てあれこれと、教えてくれる。
そば茶を煎じてくれたり当時の饅頭を説明してくれたり、
弥生の土器を作る実演も見る事ができ、なかなか良く出来ている。

堀や建物を見ればすでに城郭であり、
王がいて支配と被支配・・・まさに邪馬台国といってもおかしくはないだろう。

二十年も前になるだろうか可児市の武馬正敏先生(土器の製作者)に作っていただいた
土器で子供たちと赤米を炊いた事がありました。

縄文と弥生を贅沢にも二つ比べての炊飯はもう一度こんな場所でやれたら、
どんなに生きた授業が出来るだろうもっと教育者は考えるべきだろう。

厳かなそして温かみのある縄文、機能と便利性を考えたシンプルな弥生、
湯を沸かしたり、お米を炊いたり、蒸したりするには
はやナショナルか東芝というレベルにも思えるぐらいの大発見と
私は其のとき感動したのを今でも鮮明に覚えている。

今の時代でも、アナログかデジタルかと色々皆さんがおっしゃいますが、
どちらにも良い捨てがたいものがあります。使い分けて何ぼの世界でしょう。

土・石・鉄・銅・木・ガラス・金・銀と実に長い時間をかけて
よくもこんなに使い勝手の良いものをこしらえてきたものだと本当に感心させられる。

人間の英知とたゆまぬ努力はたいしたものではあるが
今の時代だけを快適に暮らせればよいと思って暮らしてはいないだろうか、

これから生まれてくる子孫のことを考えるならばこんな贅沢は許されるはずがない。
冬の寒い中、暖房をきかせて何もTシャツでビールを飲むこともあるまい。

寒いときにはありったけのものを着て我慢をする努力もこれからは必要であろう。
火鉢ひとつで家族が寄せ合って暮らしていたのはそんなに昔の事でもない、

つい五十年ほど前にはどこにでもあった風景なのだ。

何が豊かで何が幸せなのか、少しゆっくり歩く事もいいのではないかと

月暦で暮らそうと平成十七年の一月から「晦日蕎麦の会」を始めて

一年と三ヶ月少しずつではありますが関心を持ってくださる人も増えてきております。

太陽と月どちらも人間にとっては大切なもの、

自然の摂理のなかで反抗しないで素直に生きたらもう少し楽になれそうにも思えるのだが・・・・

吉野ヶ里 一八〇〇才 君は若い
甕棺(かめかん)の ただ立ちすくむ おそろしさ
いにしえの むらさき貝は たれが染め
雄たけびが いまに聞こえる 物見櫓
堀と柵 変わってないかも 弥生も今も
まがたまや かざりし姫は いまいずこ
かまどみて においかすかに 赤米か 

やっと赤米一年生

空を飛んだ喜八少年 還暦のたび 五

Posted at 07/09/04 Comment(0)» Trackback(0)»

雨の中、車は熊本へと向っていた。

もう一日「器」を見る時間が欲しかったが十三日には帰り、
十四日に岡崎で薬師寺の「まほろば塾」を拝観。

十五日には文楽で人間国宝の竹本住大夫先生・
薬師寺副住職の山田法胤師・安田暎胤管長夫人の順恵さんと、
持統天皇のお手植えの桜の前で四十人の蕎麦会を
地元保存会、岡崎呉服協同組合のお世話でさせて頂くことに決まっているので、
大切な事から、しっかりとこなしていかないという事情があり致し方ない事でした。                             
七谷氏には十一日に阿蘇に入る予定を伝えていたのを
二日も早く入るのでご迷惑とは思いながらも、走り続けていた。

高森に入ってから長いこと、どこまで続く事やら少々不安気味、
それでもカーナビ君を信じて走る。

こう云う時には素晴らしい応援歌が小生にはある。

不良大学学長幡掛正浩先生の作られた、安岡正篤をして呆れさせ、
高田好胤をして絶句せしめたという、
日本男子であれば是非おぼえて頂きたいものである。                                                                                                      
襤褸(らんる)悔なし

作詞    幡掛正浩
作・編曲  永作幸男

一、人間わずか五十年  化転(けてん)の命(いのち)何かある
   臭声(しゅうせい)長く伝へずば  男子生まれて恥あらん
   南禅、山門、月高く かの五右衛門は叫ばずや
   “太閤の首もらうたゾ”

二、青きは鯖(さば)の膚(はだ)にして  黒きは人の心とか
   襤褸悔なしわが一生(ひとよ)  三尺(さんじゃく)高い木の上で
   泣きごと言ふたイエスより  莞(かん)爾(じ)笑うて殺された
   鼠(ねずみ)小僧(こぞう)がにくらしい
  
三、かはい皇子(みこ)ゆえ身を捨てた  熊襲(くまそ)武(たける)はいい男
   いとし主ゆえチョン切った  安部(あべ)のノお定(さだ)はいい女
   つくすまことが実(じつ)ならば  情と非情と一つもの
   順逆(じゅんぎゃく)不二(ふじ)の不良(ふりょう)道(どう)  

四、三千世界の烏(からす)をころし  ぬしと臥(ね)たいと言ふた人
   高杉晋作先(ま)ず死んだ  続きたいぞへ国の為
   酒も女ももう厭(あ)いた  劫火(ごうか)身を焦(や)く火の柱
   のぼってみたい天までも

少々言葉が難しい所もありますが、ことばの出所と歴史が分かると面白い。

「青きは鯖の膚にして 黒きは云々」「順逆不二の」「劫火身を焦く火の柱」の三節は
夫々、尾崎士郎の(人生劇場)・北一輝(二・二六事件に坐して刑死)・安永東
之助(満州義軍に投じて壮烈な戦死)三氏の言句より採る。
 
石川五右衛門から高杉晋作まで実名で登場する七名と合わせて
計十名の人物が歌いこまれている。

これ程までに多彩絢爛たる奇士群が次から次へと出てくるのは
幡掛先生の世間の広さと、本筋を見抜かれる力でしょう。

この不良大学の校歌を歌いながら元気を取り戻し、立派な不良に為るために
日々、研鑽をし、努力をしなければならないのである。
          
校歌のいうとうりに生きられたらどんなにいいだろうか、故幡掛不良大学学長
は、この様な生き方をされたお人であったと聞く、というのも小生はここ四年
程のご縁でしかないので、はつらつと後輩を指導されたり、ご遷宮をなされ、
陛下をご先導されるお姿は見ていないのである。

残念ではありますが、短いとはいえ貴重なお時間と教えを頂いた事に
感謝の気持でいっぱいであります。

さて、だんだん高森町も目的地に近くなってきました。

電話で聞いたコンビニを見つけたときは、ドッと疲れが出たのと、気が抜けた。

とうとう約束を果たすときが来た。

一昨年、対馬へ行ったとき帰りによれれば寄ろうと思っていたのであったが、
ついにできなかった。これでやっと下り宮にお参りできることになった。

遅く着いたのにもかかわらず、小住義信、幸代ご夫妻がお出かけくださり
ミニ歓迎会をして下さいました。

後日分ったことですが、この夜の後半は、
あまり良く覚えてないのが本音である。

ようやく来たという安堵の気持、
ただ運転だけとはいいながらも長い距離を走っているわけで、
自分ではさほど疲れているとは思っていなくても結構こたえていたのだろう。

後日写真をみて自分では記憶にない場面が写っているのには驚いた。

さぞかし生あくびをしてこらえていたのではないかと思うとぞっとしている。

 ねむけよけ チューインガムか CDか 
 いじをはり 携帯もたぬ さみしいさも
 ひとくりたび 花も嵐も 不良道

                     第三部 烏の試験につづく  

空を飛んだ喜八少年 還暦のたび 六 烏の試験

Posted at 07/09/05 Comment(0)» Trackback(0)»

十日、気持ちよく晴れてすがすがしい朝を迎えた

とはいうものの、すこし気の重い何かが頭の中をよぎっている。
というのは、七谷さんが仲良く暮らしている
「カラスの一家」と僕が「初対面」で友達になれるかどうかという

大変シビアな「試験」が待っていたのである。

これは彼が僕と会うたびにカラスの一家との
「涙ぐましい平和条約を締結するまでのドラマ」を聞かされていたからである。

まずは「旅人、君の車をすこし移動してくれ」「なんで」
「いつもと違う車が止まっていると警戒して降りてこないんだよ」「よっしゃ」

彼は何とも意味不明な「カラス語」?で合図をすると。
いずことも無くカラスが飛んできて屋根の上に止まった。

いよいよ私の「人間としての品評をうける」試験の始まりである。

冷ややかに七谷氏は笑っている。丸いテーブルの上に卵を二つおいた。

音も無くスーと降りてきてしっかりと加えて飛び立った。
誠に見事な「立ち居振る舞い」思わず「美しい」と思った。

七谷氏はうなずきながら笑っている。
こうして優雅に「人間を監察して」カラスと遊んでいるのだろうか恐ろしい男である。

二回目である今度は急降下で足でつかんでの試技であった
「タッチアンドゴー」これは見事に失敗

思わず彼は大笑いで「あいつは、お前にいい所を見せようとして失敗した」
「そうだよなあのスピードでは無理だよなァ」

「でもそう度々あることでは無いんだ、お前を喜ばそうと一世一代の芝居だったんだ」
「あはははァ」「あっははァ」実に愉快な気分であった。

しかしこんな風に空の上から「人間どもを見ている」と思うと背筋が寒くなってくる。

私は「八咫烏」を思いだした。

「あの瑞鳥を思えばさもあらん」

空を飛んだ喜八少年 還暦のたび 七 幣立神宮

Posted at 07/09/06 Comment(0)» Trackback(0)»

カラス君の「試験」も無事終了。

七谷氏は高天原へ案内してくれた
まずは「幣立神宮」民族の故郷・大和の本宮としるされている。

九州の皆さんにとっては「伊勢神宮」とこの「幣立神宮」は
どんな位置関係になるのだろうか。

逆に私ども本州の人間からはどう見ればよいのか?
以外に考えたことが無かったように思える。

我ら大和民族として歴史を作り始めるにあたり、
まずはここ高天原に立ち
(神武以前はまた別に考えることとして)

国造りをめざして日向へそして瀬戸内海、熊野より大和へ。。。

古事記・日本書記紀元二千六百六十六年、
キリストの生まれる前からの暦を持つ「日本国」
2666-2006=660年もの古い歴史を持つことになる。

いま日本人がこのことをどう思っているのか。
「誇りと思う」のか、「ああそうですか」ぐらいに思うのか、

この「差」は随分と「温度差」のあるところであろう。

この歴史ある島国、海に囲まれ
「水と緑が豊かに贅沢をしなければ山の幸、海の幸に恵まれて、

自然と仲良く暮らす術(すべ)をみにつけた
優しい大和民族」

マアそう考える原点が「幣立神宮」とするならば、

一度はここから日本国を考えてもいいだろう。

この「神武東征」と「赤米の伝播」
「天皇家の勢力図」が見事に「重っていく」

昨年(2665年・平成十七年)対馬での
「朝鮮通信使・シンポジュウム」の参加。

そしてそのかたわら対馬豆酘村の豆酘崎から日本海をみて
「多久頭魂(たくつたま)神社」に参拝
「ご神田(赤米)」に辿り着いたとき。

日本と朝鮮半島の「えにし・ご縁」をひしひしと感じたのを思いだす。

空を飛んだ喜八少年 還暦のたび 八 高千穂

Posted at 07/09/06 Comment(0)» Trackback(0)»

高千穂・高千穂神社・高千穂峡どこをどう廻ったのか、
気の遠くなるほどの距離を走ってくれて、大パノラマの中、
九州の嶺みねの雄大さに感動しながらのドライブ、
もう二度と来ることは無いかもしれない阿蘇の山々、

山焼きも見える春ならではの風景。
こんなにノンビリ・ユッタリ・しちゃっていいの?かな。

還暦まで生きてきた「一里塚」のご褒美とおもえばいいのか、

妙に勝手に納得しちゃっていいのかな?
いいんですよなんてもう一人の僕が肯定する。

誰かの唄に「思えば遠くにきたもんだ」なんてのがありました。

真っ赤な「夕日」が沈みかけてきた
中々の赤・きれいな赤・山に消えるまで楽しんだ。

帰りの途中
大きな料理屋で囲炉裏のある部屋で
炭火で石盤のうえで「馬肉」料理をご馳走になった。

九州の名物とか、
信州の飯田あたりで食べる「量」とは違い

可なりいけました

一年生のテスト

Posted at 07/10/23 Comment(0)» Trackback(0)»

ピカピカの1年生の

初めての「テスト」があった

15問の書き取り

「せんせいのはつおん」を聞いて

「ハングル」に直すのであるが

見事に1問しかできなかった

「なんじゃこれ」

発音のむずかしさ耳慣れない

「微妙な違いが」まだ身に着いていないのと

良く復習をしていないのだから当たり前ではある

中には殆んどクリアーしている人もいますのでビックリ

あわてずここは一つ一つ覚えて行くしかありません

「王道」はないのですから

62歳の1年生「君の道ははてしなく遠い。。。」

昔こんな歌がありましたっけ

活字になりそうな喜八少年

Posted at 07/11/03 Comment(0)» Trackback(0)»

旅人のまん前の大磯小学校のT校長先生のお話しから

「同人誌」に載せないかとお誘いがあり

今朝も四時からパソコンに向かい

どこにいれてあるのか探してプリントアウト

出てきた出てきた三十枚

途中から少し言葉と内容が難しくなってきたので

書きなおすことになっていたのだが

次から次から「季節労働者」はいそがしく走り廻っておりますので

筆を加える余裕がなく

今回は対馬の海へ落ちた所までとして

まずは「前編」だけにして

後日「後編」を整理することにしましょうと

勝手に決めさせていただいた

しかし読みなおすと

はやく書かなくてはと

やく二~三名の熱烈な?読者さんには

書かないと忘れられてしまう???

年内には書かないと年が越せない

でも旅人には「旧暦・月暦」という

切り札ものこっているのだが

62歳の小学生・ハングルへの挑戦

Posted at 08/01/12 Comment(0)» Trackback(0)»

62歳の小学生・ハングルへの挑戦
                                                       中村允昭

私は昨年10月から名古屋韓国語学校の基礎コースに入学しました中村といいます。

私が生まれたのは1945年第二次世界大戦が終った年ですから62才になります。

今の職業は蕎麦職人です。

振り返りますと韓国との関わりはずいぶん前からありました、

長男が小学生のときにサッカーチームを韓国へ送ることになり

長男もこれに参加しました。

ソウルオリンピックではサッカーとマラソンの競技を見ることが出来ました。

その時はソウルの日本人学校の教頭先生が先輩におりましたので

随分とソウルを案内していただきました。

次に岡崎の大樹寺(だいじゅじ)と慶州の仏国寺との友好提携がありまして

そのお手伝いをさせて頂き仏国寺にもお参りさせていただきました。

ちょうどそのとき朝鮮通信使を勉強する機会がありまして

仏国寺から100人近い人が大樹寺に返礼のお参りにいらっしゃいました。

江戸時代の通信使が召し上がったであろうまんじゅうを再現したり

私も蕎麦を打ちをしておもてなしをしました。

この時も韓国語を勉強して皆さんともっとお話しが出来たらどんなに

よかったことかと悔やまれます。

まだ皆さんにも記憶に新しい2002年の韓国と日本の共同開催の

サッカーのワールドカップです。

国と国の間ではすぐにうまくいくということはなかなかないですが、

人と人はあまり時間を必要としません。

韓国の人が日本のチームを、日本人が韓国の真っ赤なTシャツを着て

一緒になって応援をする光景はいまだかってあったでしょうか。

なんという変わりようか、その半年前まではこんなことはなかったことです。

韓国の人には共同開催なんてとんでもないと思われたでしょうが、

終って見れば両国にとってこんないいことはなかったと思います。

そこから韓流ブームが始まりました。

日本のおばさんたちはいまだに韓国のスターを追っかけています。

韓国語を学ぼうとすれば幾度もチャンスはありましたが、

必要としてノックをする勇気は今回が最後かも知れない?

と思っていた矢先「社会人に最適! 楽しいハングル」の

パンフレットが目に飛び込んできたのです。

これは行かなくては何も始まらない「日本語はどこから来たのか?」「お米はどこから?」

「万葉集は?」一気にわたしに韓流がおしよせてきました。

62歳と云うさびついた頭には新しい言葉と文化の喜びははるかかなたへ、

苦しみや、もどかしさが僕の頭の毛を白くしていきます。

でもここであきらめたらもうチャンスはないでしょう。

しかし今できることは絶対休まないことだけ!

「ハイここまで宿題ですよ」といわれても、根気良く辞書を繰り返しひくことしか

出来ない私です。

内緒の話しですが

自分のなさけなさに負けそうになりお酒をのんでよっぱらっている小学生です。

「人生は旅だ」ということばが辞書にありました。

「韓国語で自分の人生を楽しんでみよう」と

今、旅がはじまりました。


                                         2008年1月11日

家康と通信使in岡崎

Posted at 08/01/19 Comment(0)» Trackback(0)»

きょう岡崎で「家康と通信使」

朝鮮通信使来日400年記念講演会がありました

講師は貫井正之先生何度も聴いている話であるが

韓国の人たちにとっては「初耳」の人たちが多いようであった

国交回復のはなしは参加者にはインパクトがあった

秀吉の朝鮮出兵から家康は9年で国交回復した

1945年の終戦から20年で韓国と

北朝鮮とはいまだにないことを考えれば

家康の政治手腕は認めざるを得まい

攻めた国と攻められた国の

子孫がこうして共通の歴史問題を勉強する機会は

これからも多く持たなければ

本当の理解は深められないであろう

旅人と本 ① 「日本の街道」中日新聞昭和38年3月1日

Posted at 08/03/19 Comment(0)» Trackback(0)»

古い本が出てきた「日本の街道」中部日本新聞社編

昭和38年3月1日初版発行490円

旅人が高校を卒業した年である

丁度そのときアサヒペンタックスを貯金をはたいて買い

3年間中村高校へ通った自転車を最後の友として

岐阜・関が原・琵琶湖を1週して淀・大阪・山崎・京都・

比叡山を越えて坂本・安土と10日ほどの旅をしたことがありました

本を見ると近江八幡の朝鮮人街道・湖西街道・西国街道

中仙道・江州街道に鉛筆で○が付けてある

十八の春にもう朝鮮人街道を通つていたのであった

ハングルの授業は「基礎1」は今日で終業

また4月から「基礎2」がはじまる

十八の春から六十二の春の始まり

また朝鮮通信使が忙しくなりそうです

言葉のもどかしさ

Posted at 09/12/04 Comment(0)» Trackback(0)»

 異国の言葉を覚えると言うのは

異国で毎日生活する人は別にして

かなりの時間がかかります

いまの授業に完全に遅れを認めなければならない

危機的状態であります

 久しぶりに、去年教えていただいた先生と

お話しする機会がありました


どんな分野でも「出来てから次へいく」のが普通であります

出来ないのに次ぎへいけば必ず無駄な時間がありましょう

さらに、やる気をなくしたりストレスがたまりますし

毎日が楽しくありません

 中には賢い生徒がいまして自分のレベルをしっかり倭極め

そのクラスに身を置いている

見栄を張らずに賢く勉強!

えらい!

夏の終わりに 北紀行 3 大曲の花火

Posted at 10/09/02 Comment(0)» Trackback(0)»

 午後5時ごろ会場の桟敷目指して移動した

すでに、60万人の大移動はクライマックス・・・

土手から川原へ降りるのは「将棋倒しが怖いので」

人数制限をしながらの安全対策・・・

約1時間ほどで桟敷に到着

 弁当を食べながら「昼花火」を・・・

これは、初めての体験だが実に見事

1年に一度の「日本一」を決める

花火職人の心意気なのか・・・

 贅を尽くす・・・最高の道楽

東北人の強さなのか・・・

この「昼花火」はここ大曲だけとか

 さて、世界一精巧な花火をうたい文句に

上げる花火はいまだ見たことのない

質、量とも「熊野」を抜いている

 愛知県の岡崎からもI煙火店がエントリー

していてくれる28回の入賞で、群馬県のk煙火店

と並んでトップである・・・

 途中でトイレに並んだら1時間ほどかかり

何とも残念なこと・・・

しかし、10年ほど通っている女性に

ここの花火の凄さを教えていただいた

桟敷に座って見ると花火が上がる最初が

見えないので、後ろで立ってみると

すべてが見ることが出来る

 座っているより楽なので

ほとんど立ってみていた

 こちらも、目の肥えた人たちが

採点をしている・・・贔屓の煙火店も

いる事であろうが、厳しい目が

日本一を見つめている

9時30分ごろ終わった

 バスに帰ったのが10:30

バスが動き始めたのが0:00過ぎ

仙台へ着いたのが7:00ごろ

まさに、24時間の「煙火旅」でした

万年青年  1、  F先生

Posted at 10/09/16 Comment(0)» Trackback(0)»

 久しぶりに中学の恩師F先生にお電話したら

相変わらずお元気そうなお声が返ってきた

アラスカ、ロシアの化石堀から岐阜蝶のはなし

ついには韓国、朝鮮半島・・・

 万葉集、古事記まで短い時間で

地球を駆け回るはなし・・・

久しぶりに明日はドライブにお誘いすることに・・・

足助町にある三州足助屋敷にある炭焼きの

「足助窯」を見に行くことになった

万年青年 F先生  2  三州足助屋敷 炭焼き

Posted at 10/09/17 Comment(0)» Trackback(0)»

 F先生をお誘いして三州足助屋敷へ・・・

炭焼き爺さんのTさんをお尋ねした

丁度、炭窯の口を閉じるところで

25日が窯出しなので「ながね会」の見学者の

皆さんには楽しみが増えた・・・

 ながね会のT事務局長も落ち合い

当日の打ち合わせも無事終わり

お二人の「きのこ談義」に花が咲き

お互いに基礎知識があるだけに 

話がどんどん進むのがうれしい限りである

F先生は82歳T先生は75歳・・・好きなことを

されている人特有の「情熱」はすばらしい

 私が、両氏の年にこれだけの「力」が

あるだろうか・・・

 帰りに「韓国の石塔」の本をお借りしてきた

旅人(たびと)

「空飛ぶ蕎麦職人」という異名をとる旅人が創作する新しい世界。空中紀行文学作家。

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