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ブログ:蕎麦職人旅人の世界へYellowCard!!
蕎麦打ち旅日記
日本文化研究会会報
空飛ぶ喜八少年
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旅人さんがサッカーを始めたのは中村高校へ入学してからである。

卒業してから家業を継ぎサッカー協会の手伝いをしていたら、いつの間にか理事になりレフリーの道へと歩んでいた。

1974年の西ドイツのワールドカップでは本当はレフリーの特別研修での参加であった。

岡野俊一郎氏(当時から語学に優れた能力をお持ちであったのでFIFAの国際会議にはもう日本を代表され出席されていた元日本サッカー協会会長)のアドバイスもあって、参加者の先生たちをつれて、デュッセルドルフからデュッスブルグのスポーツ学校を訪ねて、見るもの聞くものすべての理想郷を見てしまって驚いたころだった。

レフリーの研修に行きながら心はすでに少年たちを指導して強くしなければ始まらないことを直感していたようだ。

帰国すればレフリーのこと少年の事、もう一つ中日新聞に書いた原稿にちょっとした人気が出た。各地から講演の依頼が来るようにもなった。

日本リーグ当時釜本が早稲田を卒業して最初のデビューが名古屋球場で斜めにグランドを描いて名古屋相互銀行との試合であった。旅人さんはラインズマンとしてデビュー、開始早々大チョンボでブーイングだったとか。それでも「俺がルールブック」と信念を曲げなかったとか。

若い日の彼であった。

1978年アルゼンチン、1982年スペインと原稿を送り、1994年アメリカ、そして1998年フランス。そして大事件が起きた。2002年の開催地をどうするか。

旅人さんは連日連夜誘致活動に今までにもない時間と労力をつぎ込んだが…。

トヨタ市で反対運動が起き(全国で反対運動が起きたのはトヨタ市だけ)あっさり開催地の候補から消された。この瞬間に旅人さんのサッカーの仕事は、終わりをつげたらしい。

今まで家族をはじめ周りの人たちにけじめ…いや旅人さん自身にけじめをつけたかったのであろう。

フランスへ蕎麦うちに行く前にNHKのテレビに出演したときこんなことをいっている。

「僕は家では余りよくない亭主であり父親でした。父親として背中で子供たちに何かを伝えたい、すこし照れますが作務衣の似合う蕎麦職人にでもなれたらいいですね」

そんな修行の旅立ちが「エクスレバンの蕎麦うち」だったのかもしれない。

そのとき仲間と作った「赤米の酒」をシラク大統領に贈っている。フランスの優勝した朝「シラク大統領からの礼状」が届くというドラマがあった。

サッカーしか出来ない男といわれたくなかったのか、いやチャンと仕事も出来る男でありたいと思ったのか。

今は店も息子さんたちに任せ気ままに「出前出張そば」で人生を楽しんでいるようだ。しかし本当の「旅人さんのたび」はこれからかもしれないような気がしてならない。

喜八